| 第壱話 水を乞うてことわられた旅僧 |
| 第弐話 詫間と泉州をつなぐ糸 |
| 第参話 泉大津の大津踊り |
| 第四話 泉穴師神社、飯の山だんじりの起源 |
| 第五話 修羅観音 |
第壱話
水を乞うてことわられた旅僧
| 昔、一人の旅僧が大津へ来ましてね。みすぼらしい格好の旅僧だったらしい。くたびれてね。ある家の門口に立って、「水を飲ませてくれ」言うた。 あまり服装がきたないんでね、「きたない坊主に飲ませる水はあらへんよ」とその家の女房が言うたら、あくる日大津が全部、一夜にして赤茶けた金気水(かなけみず)になった。その坊さんは弘法大師さんやったて言うんですけどね。 ところが大神宮のあと(旧下之町にあった)だけは、金気水じゃないんです。その一面だけは、弘法さんのうらみがとどかなかったすばらしい水じゃそうな。 泉大津は昔から水の悪い土地で、上水道が完備するまでは、井戸水がそのまま使えず、水がめでこして使っていた。大津川沿い地域は清水町と名づけられたが、同じ一軒の家でも裏の井戸が金気で、表通り近くの井戸がきれいという家もあった。 1989年発行泉大津伝承文化より抜粋 |
第弐話
詫間と泉州をつなぐ糸
| 明治三五年ぐらいの生まれの方で、九十歳近くの人やけどな、湊屋さん言うてその方の八代前の方の主屋が大阪の堺らしいんだ。秀吉が朝鮮に軍を出しての帰りがけに、堺へもどるのを生里(荘内地区)へ流れついてな、そこで住みついたのが、うちの最初のご先祖やいうことや。 そういうことも含めて、「大漁節」にしても、泉州地方とうちの詫間町とは、むかしから古いつながりがあるんやなあという感じがするんやけどな。 多い時には荘内地方から泉州へ、三百人ぐらい行っとったとちがうかな。イワシのキンチャク網とかありますわな。キンチャク網いうのは、だいたい五十人ぐらいかかっていきますから。岸和田あり、 鶴原あり、春木あり、三十ぐらい網あったからな。五月なかば、六月ごろから十月ごろまで、どの網にも荘内地方から行っとったな。 漁場は泉州一円やけど、大阪の方へ向って行く時は、大津端が目標で、ほとんど大津が中心やった。波頭の端に燈台があってな、ドック場があって、かならず月に一度はそこで舟を清掃した。 その後埋立があって、陸の状況が一年々々変わって行った。一年前の感覚が残っとるからな、自分のおぼえているのより土地の変わって行くのが早うて、こんどの港はどっち向いて入ったらよいんか、夜なんか困ったな。むかしの面影はもう全然ない。むかしはもう、浜があってな。キンチャクの最盛期が終わったら、みな地曳きをやったんです。若い衆部屋に泊まってな。今から思えば、なつかしい感じがするなあ。 (泉大津の伝承文化より抜粋) |
第参話
泉大津の大津踊り
| 泉大津は大津川が大阪湾に流れ込む、その河口にできた町です。 三百年以上もむかしは、このあたりはいちめんの河原で、田はすべて足がめり込むような深田だったと言います。 その田を整備して、元禄年間(1688〜1704)に新田が開発されました。ところが、開発されたこの田に、海から無数のカニがうようよとはい上がってくる。はい上がってきたカニは、せっかくきれいに作りつけしたイネを、かたっぱしから食いちぎって行く。 ムラびとたちは何千何万というそのカニをたたきつぶし、穴に埋めました。その上に建てられたのが、いまも泉大津市河原町に残るカニ塚で、塚石には元禄一五年という年号が刻まれています。 ムラびとたちはカニ供養の塚をつくるとともに、あわせてカニのみたまを慰めるための踊りを踊り始めました。これが今に踊りつがれている「大津おどり」の始まりだと言い伝えています。 だからこそこの場合、迎えるみたまは先祖のみたまではなく、カニのみたまになるわけです。踊りの手ぶりはゆるやかで、そう言えば左右の腕を交互に、はさむように上げ下げします。足の運びも横動きが多い。歌われる音頭も、「みやまじやひばらまつばらわけゆけばまきのおてらにこまぞいさめる」など、西国三十三番札所のご詠歌です。 (伝承文化シリーズ2 泉州の盆踊り 民衆のこころをさぐる)より抜粋 |
第四話
泉穴師神社、飯の山だんじりの起源
| 聖武天皇のころ(740年)、干ばつのため凶作が続き、人々は餓死寸前に陥った。このとき天皇は悪霊によって米を和泉五社に供え、余りを民に施されたところ、たちまち雨が降りだし、人々は飢えから救われたという。その後これを祝い、今日に至るまで、毎年米の収穫期に、だんじりに飯のを盛って神前にささげるようになりました。 (飯の山だんじり) 神事に使われる地車は、神社の建築様式を模した四つ屋根で、明治26年、名工と評判だった大工、忠岡町の桜井義国の手によって作られました。周囲には泉穴師神社の境内の風景や建物がパノラマふうに彫刻されており、今甚五郎と称えられた義国の力量が存分に発揮されています。 |
第五話
修羅観音
菅原町中橋のたもとにある「修羅観音」について次のような話しがあります。
| 戦争がすんでから間なしにね、大津の台場で仕事してね、浜の浪打ぎわで弁当食べたんです。 ほなら若い衆がまんまるこい石の上へ座ったんです。いかにもおまえどこへ座ってんのなら、どいてみい言うてどかしたら、観音さんの首でしたんや。それがね、一尺ぐらいの、冠をかぶった、斜にサッと切った観音さんの首だ。 それを持って帰ってきて、家の近くの椋(むく)の木の根もとへ置いて、朝にお水あげて拝んだんです。1週間ぐらいにおらんようになってしもた。それで、我々よりももっと信仰心のあつい人が持って帰ってくれたんならええけど、子どものいたずらなんかで道ばたでこけてんやったら、どうぞ帰ってきてくれと。こっちはもう手厚うにまつらひてもらうからちゅうたら、1週間目に戻ってきてあったんです。その首が。 それからもう、晩になったら夢に出まんね。「胴体つけい。胴体つけい。」ちゅうてな。ほた、私ゃ仕事暇やろ。「それくらい胴体つけてくれ言うんなら、おれに仕事与えい。どんな胴体でもつけちゃらい。」言うたら、さあ不思議と、なんぼでも仕事がはいってくる。 えらい坊さんに見てもろたら、「久井さん」、これはもうあんたに与わったもんやから、身替り観音としてたとえ一尺でもええから胴体をつけて、これはもう蔭でまつれ。」とね。そういうわけでこの観音さん身替りにまつらしてもろて、ほて奥にしまわせてもろてるんです。 ある時お遍路さんがね、おそれ多いけど尊い方の忘れがたみちゅう尼さんが、ずうっと廻ってこられて、うちへ入って話きかしてもろた時に、拝んでくれて「修羅観音」ていう名まえをつけてくれたんです。 (泉大津の伝承文化より抜粋) |